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多羅倭人伝 :: 《12》【最終回】

  • posted by: uro
  • date: 2009/11/07 AM12:37 (土)

 恭愍王(コンミンワン)率いる軍勢が王都・開京(ケギョン。現・開城(ケソン))を進発したころ。江華島(カンファド)に集結した二十隻ほどの船団が京畿(キョンギ)湾へ漂い出た。
 船体は全て黒塗りである。高麗人から見れば、日本の商船のようにも見える。
 しかし、よくよく見ると、船兵が50名ぐらいづつ乗船しているようだ。交易船にカモフラージュした軍船だ。
 兵たちは”青班(あおはん)”とよばれる柄物の着衣をまとっている。倭人が好むとされたファッションである。みな、胴丸鎧(どうまるよろい)を身につけ武装している。
 外からは見えないようになっているが、甲板に妙なものが装備してある。焙烙(ほうろく)を飛ばす仕掛けである。「焙烙」とは爆弾の元祖だ。束ねた竹をバネ代りにしているようだ。
 船団は次第に魚鱗(ぎょりん)のカタチに陣形(じんけい)を整えつつある。先頭の楔(くさび)の位置を進む船の楼上(ろうじょう)には成文徳(ソン・ムンドク)の姿が見える。彼が船団の指揮をとっているようだ。その隣りには太郎がいる。
 「…この戦いは俺の最後の戦いだ。悔いはない」と成文徳(ソン・ムンドク)が進行方向を見据えたままで口にした。「ただ一つ、心残りがある…」
 太郎が、その心残りについて問うた。
 「富山浦(プサンポ)に残した妻と娘だ」と文徳が応じ、「もう四年も会ってない。娘はもう年頃になっているだろうに…」プサンポは今のプサンだ。
 「娘さんはプサンポにいるんですか? 」と太郎。
 「どうだろうか…それはわからぬ。あのあたりも賊の襲来が頻繁(ひんぱん)な所だ。妻の実家があるテグへでも疎開(そかい)しているかも知れぬ」と文徳(ムンドク)。
 「テグならおいらもいたことがあります」と太郎が言う。
 「らしいな」と文徳(ムンドク)は言うと、彼は懐(ふところ)から無言で一通の書状と紙切れを太郎に手渡した。紙切れの方には住所が書いてあった。
 太郎がその書状と紙切れと文徳(ムンドク)の顔を覗き込んでいぶかっていると、太郎の手を握って言った。
 「タラよ。お前に頼みがある。もし万一、俺が戻れないときは俺の代わりにその書状を携えてその紙切れの所をたずねてやってくれ」
 太郎が呆然(ぼうぜん)とその紙切れを見つめて黙っていると、つづけて文徳(ムンドク)は言った。
 「タラ。お前はテマドには身内が一人もいないと言ったな? 」テマドは”対馬島”の朝鮮語での読み方だ。
 太郎が無言でうなずくと文徳(ムンドク)は言った。
 「これからは一人ぽっちだと思うな。たった今から、この俺が家族だ」
 やがて。前方に大小いくつもの島々が見えてきた。長山(チャンシャン)群島である。船団は、それらの島々の間を縫うようにして慎重に進んだ。
 すでに、島々の船隠し(ふなかくし)には、陳(チン)元帥が率いる船団が集結していた。あらかじめ成文徳(ソン・ムンドク)との間で取り決めがされていたのであろう。太郎たちの船団と合流すると、すぐさま行動を開始した。
 島々の間から陸地が見えてきた。遼東半島だ。
 太郎たちの乗船する船の楼上に合図の旗が掲げられた。その白い旗には漢字で五文字が書かれていた。”八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)”の文字が見て取れた。

 それから10年の歳月が流れた。
 高麗(コリョ)の外交使節団を乗せた船が対馬に立ち寄った。一行は、「倭寇(わこう)問題」で京都の室町幕府に赴(おもむく)くために来日した。代表は金逸(キム・イル)、金竜(キム・ニョン)という文官と武官であった。
 彼らは、対馬島主、宗経茂(そう・つねしげ)に対して、あらためて倭寇(わこう)の取り締まり要請、ならびに、自国民の被虜人(ひりょにん)と捕虜との交換交渉を申し入れた。
 その2年後、中国大陸では元朝が倒れた。元朝の皇室は大都(現・北京)を脱出する。すでに本拠地の江南地域を中心に明朝を建てていた朱元璋(しゅ・げんしょう)によって蒙古勢主力は北方のモンゴリア草原に追われた。
 まさにその年のこと。対馬の宗経茂(そう・つねしげ)と高麗(コリョ)の恭愍王(コンミンワン)の間で正式な通商関係が復活した。
 同年十一月。高麗は対馬島主への援助物資、米一千石を船に積んで対馬へ来航した。そのときの船の舵取り(かじとり)の一人としてタラと呼ばれた男がいた。彼にとって久々の里帰りだった。しかし、誰一人として彼を元島民だと気づく者はいなかった。彼は任務をこなすと、高麗へと帰って行った。その頃、彼にはすでにかの国に彼の帰りを待っていてくれる妻子がいたのだ。
 彼は、恭愍王(コンミンワン)が親元派との内部抗争のなかで不本意な死を遂げるまで宮廷に仕えたという。
 その後の、”タラ”について、老人は詳しくは語りたがらなかった。
 ただ、世間でのうわさ話によれば、と断ったうえでこう語った。
 恭愍王(コンミンワン)の死後、新しい王が即位するなか、タラは人知れず王都・開京(ケギョン)から忽然(こつぜん)と姿を消したらしい。
 一説によると、親元派の巻き返しのなかで職を奪われ、都を追放されたのだという。恭愍王(コンミンワン)の死因は後世、病死と伝えられる。しかし寺の参詣の時、親元派の何者かによって暗殺されたともっぱらの噂だ。
 ”タラは王の身近にいながら王を守れなかった責任を感じて人知れず行方をくらましたのだろう”という人もいた。
 開京(ケギョン)を去った後の、彼の足取りはわからない。

 
 「いろいろお話いただいてありがとうございました」
 老婦人が、成一(ソン・イル)と名乗る老人を家の外まで見送りに出てきて言った。
 「いやいや…」老人はそれに応えて、「つまらぬ昔話をしてしまいました。年をとった証拠ですなあ…ははは…ではここで。お元気で」
 そう言うと、老人は老婦人に軽く会釈をした。
 「あなたも…」と老婦人は応じて、「ソン・イルさま…いえ、タラさま」
 老人はその物言いを聞いて一瞬驚いたようだった。でも、すぐにもとの平静な表情に戻っていた。
 老婦人はさらにつづけた。
 「お父上は、いえ、奥さまのお父上は、その後どうなされましたか? 」
 「エッ? …ああ、タラという男の、身内のことですか…まあ、運よく天寿(てんじゅ)を全うしたといいます。まだ太平の世にはほど遠い時代でしたが」と老人は応じた。
 「それは、よおございました」と老婦人はほほ笑んだ。
 老人はあらためて老婦人に会釈をすると、その場に立ち止まった。そして、腰を伸ばしてからしばらく景色を眺めていた。その目の前には黄海(ファンへ)が広がっていた。(おわり) 

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