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復原・遣唐使船

  • posted by: uro
  • date: 2010/05/17 PM10:02 (月)

 奈良で「平城遷都1300年祭」が開催中だ。「平城宮跡(へいじょうきゅうせき)」会場の朱雀門(すざくもん)広場の西側には「平城京歴史館」が建てられ、その屋外に遣唐使船の復原レプリカモデルが展示されている。「遣唐使船復原プロジェクト」は上海万博とタイアップしている。今月8日に大阪港を出港した本物の復元船は、上海万博に合流するため、瀬戸内海から関門海峡を抜けて博多、長崎、五島列島を経て東シナ海を渡り上海に向かっている(東シナ海は動力船に積んでいくようだ)。
 さて、この遣唐使船として活躍した船舶。説明によれば、「仕切り板のような補強材か梁(はり)」を用いて建造されていたという。”仕切り板”と聞いたとき、ピンときたことがある。時代はもっと下るがジャンク船のことを思った。
 ジャンクは宋王朝の頃の中国で発達し、東ユーラシア海域の主役となった船だ。以前そのレプリカを観た。船体内部に頑丈な仕切り板を継ぎ合わせた構造だ。岩礁などに衝突して船底の一部が破損しても、海水は一つの「艙房(そうぼう)」というスペースに流れ込むだけなので船全体に被害が及ばない作りだった。
 今日、わが国では、当時の先進文化の吸収は中国(唐)との関係だけで語られがちだ。しかし、「日本」という国号を持つ新国家の誕生は、激動の7~8世紀の東アジア情勢と深く関わっているはずだ。今の朝鮮半島から中国東北部にかけて実在した国々はどうなったのか。伽耶(カヤ)は百済(クダラ)と新羅(シンラ)に併合され、百済(クダラ)そして高句麗(コグリョ)は、新羅(シンラ)・唐連合に滅ぼされた。とはいえ、その移民たちや王族の一部は今の「日本列島」側に多数逃れてきている。亡命、移民という形で。特に百済(クダラ)は「倭(ウェ)」と呼ばれた地域と関係が深かった。歴史上有名な「白村江(ペクチョンガン)の戦い」とはなんだったんだろうか? 「倭」の有力者たちが勝ち目のない戦争に、百済(クダラ)の側に立って巻き込まれたのはなぜだろう?  ヤマト政権を主体にした従来の歴史観では、まるでガテンがいかねえ。
 百済(クダラ)は海上ルートを使った交易で栄えた国だったという。船の築造技術については新羅(シンラ)や高句麗(コグリョ)より勝っていただろう。やがて、朝鮮半島が新羅(シンラ)によって統一され、唐からも一目置かれるようになると、東アジア情勢は安定化する。列島側では「倭」のヤマト政権が新羅(シンラ)や唐のような体制の国づくりを目指し始める。百済船の優れた築造技術も唐や「倭」の地域に広まっていったことだろう。

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復原レプリカモデルの全景。右側が船首。左側が船尾。


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折りたたまれた状態の帆(素材は竹)


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遣唐使船の構造についての説明文