百済(クダラ)は朝鮮半島の南西部に栄え、紀元後660年に新羅(シンラ)と唐の連合軍によって滅ぼされた国だった。「百済」は現在、韓国などでは「ペクチェ」と発音される。しかしもともとは、古代朝鮮語の「偉大なる国」という意味の「クン・ナラ」がなまった呼び名らしい。「日本」誕生以前の「倭(ウェ)」と呼ばれた地域とも関係が深い。わが国の仏教や暦、医術などさまざまな文化はこの百済から移住した人々によって伝えられたというし、かつて百済から倭王に下賜(かし)された「七支刀」は奈良・石上(いそのかみ)神宮のご神体で、今もわが国の国宝だ。しかし、百済はその高い文化で周辺地域に影響を及ぼしながら、対立する勢力の武力によって滅びた。その最期は源氏によって滅ぼされた平家の末路によく似ている。
1971年7月、韓国・忠清南道(チュンチョンナムド)・公州(コンジュ)の錦江(クムガン、かつては白村江(ペクチョンガン)と呼ばれた河)に近い丘陵から陵墓が発見され、数々の副葬品とともに二枚の石板が手つかずの状態で発掘された。その石板は陰刻の銘文(めいぶん)が刻まれた墓誌石で、百済王朝の武寧王(ムニョンワン)とその王妃が永眠している陵墓だと確認された。王の誌石には五十二文字の銘文が漢字で刻まれていた。内容は非常にシンプルそのもの。ここに誰が葬られ、いつ亡くなった人物かがはっきりわかる。「亡くなった」という表現は崩御の「崩」の字が使われている。東アジア世界では天子か帝王の死だけに使われる文字だ。「日韓併合」時代の日本政府が朝鮮半島各地で盛んに古墳の発掘をしていたのは有名な話だ。自分たちの歴史観に都合の悪い遺物が出てきたら闇に葬るつもりだったのだろう。政治意図をもった破壊活動や財宝目当ての盗掘は数限りなくあったはずだ。それらをよくぞしのいで後世の私たちに真実を語ってくれた、と言うしかない。現地に行った知人の話では、自然の地形のなかでは古墳とはわからなかったという。
公州(コンジュ)は百済王朝の二度目の都だった。かつては「熊津」と表記され、コムナル、またはウンジンと呼ばれた街だ。この陵墓は発見当時、わが国でもマスコミが取り上げたが、その後の研究で、当初思われた以上に、古代東アジアの実像、「倭(ウェ)」と呼ばれた地域の実態、ヤマト政権の正体を解明するカギを握っている。この著者のフィールドワークと実証研究によれば、百済はこれまで思われていた以上にスケールの大きな連邦国家だったようだ。「倭(ウェ)」と呼ばれた地域もその影響下にあった。「百済」はわが国では「クダラ」と呼び習わしてきている。それにしても、わが国ではその意味を問われると今なお黙して語ろうとしないのはなぜだ? 「日本書紀」の記述もどうもあやしい。歴史の実態を知る上で一番の大敵は政治意図による改ざんだ。かつてはタブーとされた古代史にも科学のメスが入る時代になった。動かぬ証拠物件の前では謙虚でありたい。
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